『最高の景色』/徳原輝一
平素より大変お世話になっております。
2025年シーズン主務を務めました、玉川学園高等部出身、社会情報学部の4年徳原輝一です。
多くの先輩や後輩、相手に出身チームを聞かれ「玉川学園」と答えるとどこだよそれという反応が大半な4年間でした。無理もないです。玉川学園は東京都地区2部リーグ所属(東京都6部相当)。正直、胸を張って語れるような経歴ではありません。
今回の引退ブログではそんな私の4年間の大学サッカーの振り返りをざっと記したいと思います。かなり長くまとまりのない文章なので、時間がある方は是非読んでください。数人の同期に熱いブログをかなり期待されていますが、今私の気持ちを素直に記したものなので、期待を下回っても何も言わないでください笑
強豪校でもない私がなぜ体育会のサッカー部に入り選手として4年間真剣に続けたのか。
もちろんプロを目指しているわけでもない。この質問は就活中に何度も聞かれた。
「なぜ体育会?サークルで良くない?」「なんでそんな続けているの?」「遊びたいでしょ?」と。
就活中は、曖昧に「サッカーが大好きだから」「やるなら本気でやりたい」と誰もが言いそうな浅い回答をしていた気がする。でも引退を迎えた今、胸を張って言える。
「チームのためにサッカーをしていた」と
この言葉が、嘘偽りなく、4年間の全てを表している。これは去年の主務である山田智暉くんの卒業ブログにも書いてあり、何を言っているんだと思っていたが、4年目を終えた今まさにその通りだと感じた。これが主務を背負ってきた責任なのかとも感じた。
高校を卒業し、3月下旬。青学での4年間が始まった。初日から神田さんトレを行い、寒い雪の中死ぬほど走り、「これが大学サッカーのレベルか。今までぬるま湯に浸かってサッカーやっていたんだな。」と思わされた。2日目、3日目、1週間経っても当然のように毎日走ってた。ほんとにキツくてグラウンドに行くのが怖くなって入部を諦めようと思ったりもした。それでも気づいたら毎日グラウンド通っていて、その流れで入部を決めた。当時はまだコロナ禍だったこともあり、最初は1年生カテゴリーとして始動し、活動していた。必死に同期のみんなに食らいついてく毎日だった。そんな中迎えた練習試合2試合目。ボランチのスタメンで名前が呼ばれた。びっくりした。驚いたのは私だけじゃないと思う。他の10人の出身チームは札幌U-18、名古屋高、市立長野高、前橋育英高、駒澤大高、大津高、浦和Y、清水Y、大宮U18、広島Y。正直物凄くびびったのを覚えてる。自分以外の10人は全員全国経験者。ボランチの相方は大津高校で全国準優勝を経験した寺岡潤一郎。今じゃとても可愛く、関東の試合前アップで必ずパス相手をする関係だけど、当時は怖かった。圧があった。あとは安藤優羽(4年/名古屋高)。彼は私がミスをするたびに聞こえるぐらいの大きさで舌打ちをしてきました。怖かった、笑 今ではとても仲のいいバイト仲間です。
でも不思議とめちゃくちゃ楽しかった。ミスもたくさんしたけど、思った以上にできた。緊張で手足が震えてたはずなのに、プレーしている時間はずっとワクワクしていた。「このレベルでサッカーできるんだ」そう実感できた最初の時間だった。しかし、その試合で相手に突っ込まれふくらはぎの筋損傷し松葉杖になった。Iリーグの開幕どころか9月まで1試合も公式戦に出れなかった。やっと掴んだスタートラインから、一瞬で置いていかれた気がした。
リハビリを経て、夏の地獄の関西遠征後、先輩の怪我やチーム事情もありボランチからCBへコンバートされた。そんなチャンスを頂き、サテライトBで6試合ほど出ることができた。怪我もあってかなり出遅れたが、ハイレベルな環境でプレーできるに毎日刺激を受け、辛さ以上に楽しい1年だった。
ある程度大学サッカーに慣れ、2年目はサテライトAに絡んでいくという強い気持ちでシーズンオフから走りや筋トレに励んだ。しかし、2年目もサテBになった。1年目の最後に一緒にIリーグに出ていた、大屋大和(4年/トリプレッタY)、宮ア開(4年/日大藤沢高)、玉井駿作(4年/日本文理高)、山内朝陽(4年/熊本学園大附属高)、逢坂文都(4年/札幌U-18)などの多くの同期たちはサテAやトップに上がり非常に悔しかったし、焦った。
玉井や大屋には「サテBなら試合に出れるし経験を積めるからいいや」なんて強がり、よく愚痴をこぼした。ほんとはみんなが羨ましくてとても悔しかった。
まあ実際2年目は大きな怪我もなく、Iリーグには20試合ほどフル出場することができた。信頼して主力として使い続けてくれた酒井さんには本当に感謝しています。ありがとうございます。自信がものすごくついた1年になりました。
しかし、その気の緩さからかピッチ外では寝坊を短期間で連発し、次期主務としてあり得ない行動をしてしまったと思う。本当にその節はすいませんでした。
1年目で掴んだ手応え。2年目で得た自信。「今年こそはトップに絡む」そんな強い覚悟を持ってスタートした3年目。始動から2日目左膝が一瞬抜けたような気がした。少し痛いなと思いながらカテゴリー紅白戦を控えるためここでやめるわけいかないと思い続けた。結果当然だが、全くいいプレーができずまたもサテBとなってしまった。そしてついに練習試合で完全ダメになってしまい2ヶ月半近くリハビリすることになった。3年目もサテBになってしまい、多くの同期が関東リーグで活躍している中、自分は何もできず差を離され、4年間サテBで終わってしまうと思う瞬間も多くあった。「まあそりゃ無名高出身だからな。」と自分に言い聞かせ無理やり納得させようとしたこともあった。
そんな中、自分のサッカー人生を大きく変える出会いがあった。祐人さん(コーチ)との出会いだ。祐人さん自身も自分に出会えて本当に感謝して欲しいと私に言ってきますが、本当に感謝しています。
当たり前にIリーグに出られていた、慢心していた口先だけの自分をもう一度覚ましてくれた存在でもあった。
ある練習試合のハーフタイムで
「そんなんじゃ試合に出る資格なんてない」
「お前を使ってる意味を考えてくれ」
そう言われた時は本当に悔しかった。本当にこのままだとサテBで4年間終わってしまうと胸に突き刺さった。でも、その言葉があったから、自分の甘さと真正面から向き合えた。
そこから、自分の中で準備に対する考え方が大きく変わった。食事、筋トレ、睡眠、寝る前のストレッチ、練習への入り方。全部の準備を徹底するようになった。その積み重ねで体も一回り大きくなり、高校年代で結果を残してきた選手とのマッチアップでも競り負けず、完封できた試合もあった。それは、ただの自信じゃなくて、準備してきた証拠として結果に現れるようになってきた。そんなこんなで1,2年目と同じサテBで過ごした1年だったが自分にとっては全く違う1年になった。
最高学年になり今シーズンこそはトップに昇格して、関東リーグに出るぞと思い、落合乃安(4年/市立長野高)や玉井達と、とにかく自主トレに励んだ。しかし、最初のカテゴリー分け紅白戦ではトップに上がれず、またもサテライトスタートになった。しかしいつもとは違う感覚で毎日充実していた。一つ一つのプレーに自信を持てていたし、何より堂々とやれた。
そんな中2月頃、拓殖大との練習試合後、初めてトップに呼ばれた。カテゴリー分けがある度、自分のマグネットがサテB にしかなかった自分がついにトップにマグネットがあると。めちゃくちゃ嬉しかった。そのチャンスをもらい定着すると思い意気込んだが、結果、練習試合で私は全く良さを出せず、ミスをすることを恐れ、そのチャンスを無駄にした。悔しいより自分にムカついた。大学サッカーで幾度ともらった大事なチャンスを自分で無駄にした。まあそんなパフォーマンスでトップに残れることもなく、すぐに落ちた。その後、韓国遠征を経てトップに呼ばれることはなくサテAでシーズンスタートした。祐人さんとも2年目になった。やれることが多くなった分、要求もものすごく増えた。
トップに残れなかった悔しさもあったが、サテAの目標であった「1年での1部復帰」という頭にすぐ切り替えられた。サテAの4年は、1年の頃最後にサテBで戦ったメンバーで、また一緒に戦えるということが大きかった。シーズン当初からコンディションもそこまで悪くなかったが、韓国遠征から帰ってきた翌週、拓殖大との練習試合で相手と頭同士で接触、脳震盪になり、出遅れた。復帰後もポジション争いで開に負け、前期は2試合しか出番がなかった。
そして、夏前カテゴリー分け紅白戦のラストチャンスで自分は最低最悪のプレーを続け、トップに昇格する夢は絶たれた。
しかし、夏の中断期間に東北学院大との定期戦があったため、主務としてトップの仙台遠征に帯同し、トップの一員として試合に出れる機会を頂けた。2月に比べたら堂々とやれたし、なによりトップにいる同期と同じピッチに立ってサッカーできる時間が本当に楽しかった。自信を持ってサテAに戻り、後期開幕のスタメンを勝ち取りさあこれからというタイミングで左手を負傷。その後約3週間離脱し、結局、後期の出場もたったの2試合。
そして引退試合。帝京大とのIリーグ1部入れ替えプレーオフ。
結果は、サテAの良さを全く出せず0-2で敗戦。自分はサテAの4年で唯一、プレーオフのピッチに立つことすら出来なかった。
4年目、公式戦4試合出場、時間はたったの276分。これが自分の実力。本当に苦しかった。
けど4年間で一番充実した1年だった。
どんなに悔しい思いをしても、毎日全力で準備し、全力で挑戦できた。
チームのために、仲間のために、そして自分のために、全てを注ぎ込んだ1年だった。やりきったと思う。選手として後悔はない。
4年目は、主務としても本当に多くの経験をさせてもらった。
先輩たちが引退し、最上級生になった今年、自分の中で一番大きかったのは「ピッチ内外チームのために全力で動く」という覚悟だった。本当は、選手として関東のピッチで貢献することが一番だった。だけど一番の目標であった関東リーグ出場は叶わなかった。シーズン前に監督の厚さんとの面談で、選手として関東に貢献できなかった場合、「主務という立場でスタッフとして関東に関わらせてください」とお願いした。
どんなに面倒なことでも、キツくても、大変なことでも、チームのためになるなら全力でやる。この覚悟だけでは、この1年間ぶれなかった。
関東では、アウェイの亜細亜大戦、作新学院大戦を除く20試合に主務として帯同させてもらった。試合前の準備、移動、連絡、運営、MCM、試合後の片付け、対応。
ピッチに立てなくても、チームを支える仕事はいくらでもあり、その一つ一つに責任があった。それ以上にこんなに多くの人に支えられて自分達がサッカーできているんだと改めて感じた。
前期終了時点で、青学は首位と同勝ち点で3位。
後期開幕も中央学院大に5-1、首位争いしていた城西大に1-1。結果だけを見れば、悪くない滑り出しだった。だが、勝ち点を土壇場で失う試合が増え、次第に上と離され始めるとチーム全体に少しずつ焦りが見え始めた。
焦り、不安や苛立ち。
言葉にされないそれらが、ベンチの空気や日々の練習後の会話、試合前、試合後の雰囲気に出てかもしれない。ピッチに立てない自分だからこそ、ピッチの外から、その空気を誰よりも近くで感じていたと思う。
何かできたんじゃないか。もっと早く気づけたんじゃないか。もっと違う声のかけ方があったんじゃないか。
そう思えば思うほど、 結局、結果に何一つ貢献できなかったという現実が突き刺さった。
それでも、最後まで突き進めたのは同期の存在があったから。
主将として誰よりもピッチを走る金子星太(4年/清水Y)、誰よりも声を出してファイトする武田倭門(4年/前橋育英高)、誰よりも自信を持ってプレーする開、仕掛けてCKを獲得して吠えた優羽、メンバーに入れなくても常に一緒に声を出してサポートしてくれた田中星凪(4年/國學院久我山高)、数多くの決定機やPKを止めてチームを救ってくれた沼田晃季(4年/青森山田高)、大事な試合で点を取ってくれる頼れる高橋悠(4年/浦和Y)や森夲空斗(4年/広島Y)、淡々としているけど熱い男大里直也(4年/浦和南高)、チームの心臓玉井。その姿、トップで躍動する同期達に何度も胸を打たれ、自分も全力で挑もうと何度も思えた。
本当に最高のチームだったと思う。
でも結果は残酷で、自分たちの代で関東2部昇格・復帰を決めることも、1年でのIリーグ1部復帰、全国優勝を成し遂げることも、そして自分が関東のピッチに立つことも叶わなかった。
正直に言えば、この4年間、苦しかった。
個人としてもチームとしても負けが多かった。
思い描いた4年間とは、違う。
関東リーグに立ちたかった。自分の力で勝利にもっと関わりたかった。
けど、この4年間で得たものは、そんな結果という言葉では片付けられないほど大きかった。悔しさ、葛藤、敗北、努力、仲間、責任。全部ひっくるめて、自分を強くしてくれた。そして何より、このチームでサッカーをした4年間は一生の誇りで最高の財産であり、「最高の景色」でした。みんなとするサッカーが本当に一番大好きで幸せでした。
みんな本当に本当にありがとう。
サッカーを通して出会ったすべての皆さんも本当にありがとうございました。
両親へ
特に何もサッカーには口を出して来ないタイプでしたが、常にサポートしてくれてありがとう。特に母親には迷惑をかけたと思います。大学だけで2度の骨折と2度の救急車。本当に心配をかけました。そして最後の試合に出られなくてごめん。これからは全力で親孝行します。ここまで本気で熱中することができたサッカーというスポーツに出会わせてくれてありがとう。
これからもよろしくお願いします。
同期へ
4年間ありがとう。みんなのおかげで最高の4年間だった。同期に対する愛は語り尽くせないので感謝の気持ちでゆっくり描きます。
主務の後輩達3人へ
結果として何も残せなかったこと本当にごめん。
ピッチ外でも大変なことがたくさんあると思うけど、チームのために全力で戦ってほしいと思う。3人はサッカー上手いから、スタッフとして関東に関わるんじゃなくて選手としてピッチで輝いて必ず貢献してほしい。
3人のことは、これからもずっと応援します。
伸乃心は、瑛太の教育も含めて頑張ってくれ。秦は心配してないよ。
そして入部を決めたばかりの私へ
逃げ出さず、あそこで折れずに入部を決めた自分を褒め称えたいです。おかげで最高の仲間たちと出会えました。
青学を選んで良かった。
青学の体育会サッカー部に入って良かった。
ただそれだけです。
引退ブログなので、かなり長くなってしまいましたが、4年間の思いの全てを記しました。
改めてありがとうございました。
今後とも青山学院大学体育会サッカー部へのご支援、ご声援よろしくお願いいたします。
徳原 輝一
2026/01/04 20:35