「終わりなき旅」/宮ア開
毎朝7時半から練習し
キリのないバーボレやボール回しをやって
いつまでもグラウンドでだべって
筋トレをして昼飯に行って たわいもない会話で笑い合う
そんな当たり前に続いていた日常が終わってしまったことと自分が引退したという実感がないまま、この引退ブログを書いています。
こんにちは。「青学で1番チームを愛し、仲間思いで情にあつい男」宮ア開です。
気がつけば時の流れはあっという間で、今年、人生の大半を捧げてきたサッカー人生にひとつの区切りを迎える。気づけばもう15年以上。小学生ではボランチで試合を支配し、中学では史上最弱世代となり、高校では厳しい上下関係とサッカーの厳しさを知った。これまで本当に恵まれた仲間と出会い、充実した日々を過ごしてきた。
中でも大学4年間は、間違いなく最も熱く、最も楽しく、そして最も自分を成長させてくれた。そんなサッカー人生最終章とも言える大学4年間について、振り返ろうと思う。
書きたいことが多すぎて長くなってしまいますが、お付き合いください。
「日藤でやっていたなら余裕だよ。」
日藤の先輩である松本遼成にそう言われ、Jユースや強豪校の選手、さらにはヤンサカのYouTubeに出演するような有名選手と、これから同じピッチでサッカーができる、そのワクワク感と半ば就活のために入部を決意した。
入部当初は1年生チームでの活動が始まり、安藤優羽の対人の強さ、大里直也のドリブル、そして金子星太の異次元のサッカースキルなど、そのレベルの高さに衝撃を受けた。
また、この時期の火曜日は練習参加人数は10人に満たず、内容は神田さんによるほぼパーソナルトレーニング。ストレングスでは、当然のようにこなす金子星太を横目に、田中星凪と毎週のように0点を叩き出していた。そして、当然のように走りについていけず、途中でリタイアする始末だった。挙げ句の果てには、「スカすな!」という意味のわからないお叱りを受けた。 この出来事がきっかけで毎週火曜日を迎えることに恐怖を感じるようになった。
そんな選手が上のカテゴリーへ上がれるはずもなく、1年生はサテライトBからのスタートとなった。それでもIリーグ2部には、高校時代に名の知れた選手が多くいて、レベルの高い環境でプレーできることが楽しかった。
しかし、夏以降は、苦い思い出が残っている。関西遠征で連日二桁得点差で敗れるという屈辱的な経験を味わったり、Iリーグの國學院戦では、玉井駿作とともにとしさんから怒られ、その日を境に、試合に出れなくなったりした。
年間を通して結果は振るわなかった。それでも、当時の4年生たちの背中は大きく、サッカーではもちろん、立ち振る舞いやピッチ外での姿勢まで含めて、自然と「この人たちについていきたい」と思える存在ばかりだった。
「自分も4年生になったとき、こんな存在になりたい。」
そんな憧れの先輩たちと同じピッチでサッカーができたことは、何より楽しく、同時に大きく成長できた1年だった。
そして2023年が始まり、プレシーズンではなぜかTOPチームに昇格することができた。 しかし、先輩に怯えながらプレーする日々が続き、そのせいで次第に萎縮し、自信を失っていった。
結局、TOPチームにいた時間はほんのわずかで、すぐにサテライトAへ降格。オフにスノボをしている最中に送られてきたメンバー表を見て、自分と同時にTOPチームから落ちた寺岡潤一郎、谷口登爽と共にオーストラリアにいる先輩がなぜかTOPチームに残っていることに文句を言っていたことは今でも覚えている。
こうして、サテライトAでのセカンドシーズンが始まった。
この年は、間違いなく最悪のシーズンだった。怪我を繰り返し、復帰しても試合に出られない日々。久しぶりに出場したIリーグでは、明治相手に0-5。そのまた久しぶりに出場したIリーグでは自分のゴールで勝利したにもかかわらず、次の試合ではベンチ外。これに関しては理解できなかった。
そして、同期や後輩が関東リーグやIリーグで活躍している姿を目にするたび、不安や焦りを感じていた。
「自分が出た方がいい」と思っていたし、どこかで「負けてしまえ」とさえ感じていた。そんなことを考えながら、応援に回った試合では、安藤優羽とともに負け予想をするほど不貞腐れていた。そしてその予想は現実となり、チームは関東3部へ降格し、Iリーグもプレーオフに回って、ギリギリで残留する結果となった。
個人としてもIリーグ出場はわずか2試合にとどまり、ほとんど試合に出ることはなかった。チームとしても個人としても、うまくいかないシーズンだった。
そして、代が変わっていつかの紅白戦では、試合中の態度を直さんに指摘され、「そんな奴は試合に出せない」と最下位のカテゴリーへと降格し、2023年を終えた。
しかし、2024年に入り、ひとつの転機が訪れる。「右サイドバックへのコンバート」だ。年末には見放されていた直さんから提案され、挑戦してみると驚くほどハマった。正直、「おれ、サッカーうまいな」と感じられるほどの手応えがあり、プレシーズンで試合を重ねる中で確かな自信をつかんだ。
そして、そのままサテライトAとしてシーズンが始まり、Iリーグも開幕した。去年とは打って変わって開幕から3試合スタメンで出場することができた。得点やアシストを記録したりすることで、ようやくピッチの上で自分の価値を示すことができるようになり、サッカーがより一層楽しくなった。
シーズンが開幕してまもなく、早くも二度目の転機が訪れる。「TOPチームへの昇格」だ。紅白戦で点を決め、TOPチームのチャンスを掴んだ。
最初は、どうなるのか不安だったが、意外と通用するところもあり、さらに自信がついた。より高い環境でプレーする中で、サッカーが確実に上手くなっていることを実感した。
夏の中断期間明けの明治学院戦で初めてベンチ入りし、10月19日の東京経済戦で関東リーグデビューを果たした。ただ普段は、ベンチに入るか入らないかギリギリの立ち位置で、役割は主にTOPサブとして、相手を想定したスパーリング要員だった。それでも、大好きな先輩とプレーできたこと、善方寿人や齋藤勇真と拓殖のようなサッカーができたことは楽しかった。
いつしか関東リーグの舞台に立つことそのものよりも、紅白戦でTOPチームに勝つことが自分にとってのやりがいになっていた。
それでも、どこかで自分の立ち位置に違和感を抱いていた。試合に出ていないのに、ただTOPチームにいるだけで満足している自分がいたからだ。
そんな中、下のカテゴリーの選手から「TOP弱くね」という言葉を聞くことが多くなった。チームを代表するはずのTOPチームが外からはそう見られている。それが何よりも悔しく、自分の力でこの現状を変えたいと本気で考えるようになった。
その思いとは裏腹に、その後関東リーグに出場することなく、練習試合に出場する日々が続いた。TOPチームに昇格したものの、何一つチームに貢献できないまま、目標として掲げていた2部昇格にも届かず、Iリーグは2部へと降格しシーズンは幕を閉じた。
この頃から本当の大学サッカーが始まったような感覚があった。得点できた瞬間や、プレーがうまくいったときの喜び、そして何より試合に勝つことの価値をこれまで以上に強く感じるようになった。 先輩から自分をメンバーに推してもらったり、玉井駿作や武田倭門を筆頭に色々な人から「おまえ、うまくね」とか「開が関東でた方がいい」と言われることもあり、表では否定しながらも、内心では確かな自信と喜びを抱いていた。
4年生が引退し、ついに自分たちの代になった。最初に行われた学年ミーティングで、「俺らの代で絶対に2部昇格しよう」と2時間以上にわたって本気で話し合った時間は、今でも忘れられない。最高学年という覚悟と責任が固まり、いよいよ新シーズンが動き出した。この1年は、チームとしても個人としても勝負の年になると感じていた。
正直、サッカーでは井上駿也真とのポジション争いになるものだと思っていた。しかし、そこで告げられたのは3バックへの変更。その瞬間、明確な居場所を失った。天皇杯メンバーには選ばれたが、試合ではベンチ外。チームも1回戦で負けそのまま、2024年は終わった。
そして覚悟を新たに、2025年が開幕した。この代で3部優勝、2部昇格を成し遂げるために、プレーだけでなく、言動や姿勢から変えていこうと心に決めていた。
そんな中、シーズン最初のトレーニングマッチで相手キックオフで飛んできたロングボールをヘディングでキーパーに返そうとしたものがコーナーキックとなり、そこから失点。直属の後輩である橋絢斗にブチギレられたことは今でも鮮明に覚えている。最高学年として、これ以上ないほど情けなかった。
その後は、ずっと最下位のカテゴリーでプレーする日々が続いた。 すべて自分のせいなのに、「どうせTOPチームに上がっても試合には出られないからサテライトで試合に出た方がいい」「自分がサテライトをIリーグ1部復帰させればいい」そう考えて現実から逃げるようになった。確実にサテライトで試合に出られると決まっているわけでもないのに。
ただそれは言い訳にすぎなかった。本当は、TOPチームでプレーしたかった。今年こそ関東リーグの舞台に立ち、結果を残したかった。同期が次々とTOPチームでプレーしている姿は楽しそうだったし、羨ましかった。 何より、ビルドアップに関しては青学で1番自信があったし、昨年はTOPチームにいたというプライドが邪魔をして、素直に現実を受け入れることができなかった。だからこそ、そう思い込むことで自分を肯定した。
徐々に調子を戻し、祐人さんに起用してもらえるようになり、サテライトAとしての最後のシーズンが始まった。TOPチームでプレーしたいという気持ちは消えなかったが、それでもチームのために今の自分にできることを考え、Iリーグ1部昇格のために全力でプレーしようと決意した。
「俺がチームを勝たせる」そう自分に言い聞かせて迎えた開幕戦では、自分の得点で勝つことができ、最高の形でシーズンをスタートさせた。このメンバー、コーチとなら本当に昇格できる、心からそう思えた。
その後もまずまずの戦績で試合を重ねていった。しかし、6月7日、忘れもしない山梨学院戦。3−1でリードしたまま迎えたアディショナルタイムに、3失点を喫しまさかの逆転負け。その原因は紛れもなく自分だった。悔しすぎて言葉も出なかった。この試合は、サッカー人生史上最も悔しい試合として、今後更新されることはないだろう。
それでもチームは崩れず、その後は負けなしで前期を2位で折り返した。
関東リーグも中断期間に入り、チームは紅白戦ウィークに突入した。これがTOPチームに上がるための最後のチャンスだった。
昇格できなくてもいい。それでも、TOPチームに勝ちたい。そのことだけを考えて臨んだ。
その結果、運よくTOPチームへのチャンスをもらうことができた。夏の遠征や練習試合を通して、少しずつ序列を上げていった。そして後期開幕戦の中央学院戦でベンチ入り。試合は5−1で勝利し、昇格に向けて最高の再スタートを切った。
しかし、そこから中々勝てない試合が続いた。そんな中、亜細亜戦でスタメンのチャンスをもらった。「とにかく勝たせる」その一心で臨んだ試合だった。しかし結果は1−1。しかも、失点は自分のせいだった。悔しくてたまらなかった。
その後も毎試合ベンチには入れてもらっていたがピッチの外から試合を見つめる日々が続いた。それでもベンチには試合に出られなくても声を張り上げ、同じ熱量で戦っている落合乃安や田口祐真。悔しい思いをしているはずなのにチームのサポートに徹する田中星凪や徳原輝一。その姿に影響を受け、チームのために自分にできることをやり続けた。
それでも、流れはなかなか変わらず、勝てない時間だけが過ぎていった。
そんな中、立教戦で途中出場のチャンスをもらった。スコアは1−1。何としても勝ち点を取らなければならない状況だった。しかし迎えたラストプレー、相手のコーナーキックが自分の頭上を越え、そのままヘディングで叩き込まれ、1−2。またしても自分のせいで失点した。悔しいというより情けなかった。
続く明治学院戦ではスタメンで使ってもらった。自分にできることはすべてやりきったつもりだった。それでも結果は1−1。なぜ勝てないのか、何が足りないのか、本当にわからなかった。
いつしかチームは自動昇格の可能性を失い、昇格プレーオフに向けて戦うことになった。 しかし、悪い流れを断ち切れず、今年も「弱い青学」を変えることもできなかった。
11月15日作新学院戦をもって大学サッカーは終わった。関東リーグは12チーム中7位。昇格どころか、昨年の順位を下回った。Iリーグも入れ替え戦まで進んだが、昇格は叶わなかった。
結局、何も残せないまま最悪の形ですべてが終わってしまった。
「おれらの代で絶対に2部に昇格しよう」 「笑って終わろう」 そう誓ったあの日から昇格に向けて本気で戦い続けた1年間。 全員がピッチ内外でチームのために働き続けた1年間。 金子星太を中心に後輩にも恵まれ、本当に素晴らしいチームだったし、大好きだった。それがこんな形で終わっていいはずがなかった。
本気で昇格したかった。 もっと勝ちたかった。 みんなで喜び、笑い合いたかった。
だからこそ、 「どうしたら昇格できただろうか」 「あの試合に勝っていれば」 「あそこでマークを外していなければ」 意味がないと分かっていても、今でも無数のたらればを考えてしまう。
結果として、目に見えるものは何も残せなかった。 それでも、1年生の頃に見た4年生のような先輩になれただろうか。 後輩たちに憧れられるような先輩になれただろうか。
その答えは、自分では分からない。 ただひとつ言えるのは、
この1年間、昇格に向けて戦い続けたこと。 結果が出なくても、本気で向き合い続けたこと。 仲間を信じ、同じ方向を向いて戦い切ったこと。
その姿は、きっと後輩たちに伝わったはずだ。 2部昇格は、そんな頼もしい後輩たちに託したいと思う。大爆発中のNo.10を中心にうまさと強さを兼ね備えた彼らならやってくれるだろう。いつまでも応援してます。特に唯央、絢斗がんばれ。
「ただサッカーができればいい」「就活で使えるから」という軽い気持ちで入部したはずの自分がこんなにも勝ちたい、昇格したい、もっと上を目指したいそう強く思えるようになったのは、みんなとするサッカーが本当に大好きで、楽しくて夢中になれたからだ。
いまだに、後輩がサッカーをしている姿や試合に勝っているところを見ると羨ましさ、そしてもうみんなとサッカーができなくなってしまったという寂しさが込み上げてくる。
もし今願いが叶うとしたら、もう1度あの頃に戻ってまたみんなでサッカーをやりたい。
結果がついてこない4年間だった。それでも、青学でサッカーができて心からよかった。 そしてなにより、 大学生活のほとんどの時間を共にし、サッカーでは本気で高めあえて、いつも最高に楽しく永遠に笑っていられる同期
生意気だけど、一目散に二人組を組んでくれたり、仲良くしてくれる可愛くて頼もしい後輩たち
常にチームと選手のために行動し、支え続けてくれたマネージャー
選手のことを1番に考え、朝早い時間から高い熱量で指導してくださったスタッフ
この仲間と出会えたことが1番幸せだ。 そして、この仲間と過ごした当たり前で変わり映えのない日々が実は大事でかけがえのない意味があったのだと今になって感じる。4年間の楽しいこと、辛いこと、悔しいこと、そのすべてが結果以上にかけがえのない財産であり、永遠の宝物だ。(カラオケでみんなと流したあの涙は一生忘れません。)
出会えてよかった。本当にありがとう。
今はグッバイ!
p.s.
安藤優羽のおかげで、サッカーはまだやめられそうにありません。もう少しだけ続けようと思うので、応援よろしくお願いします。
2025/12/26 21:52