『本音』 / 宮代敬弘
『本音』 / 宮代敬弘
多摩大学目黒高校出身、コミュニティ人間科学部4年の宮代敬弘です。2年の夏頃に入部してから約2年半、あっという間の大学サッカーでした。前回のブログで熱いことを書いてしまった(ぜひ読んでください!)ので、引退ブログではいつも通り冷静にこれまでを振り返りたいと思います。
「負けず嫌いの平和主義者」
私の人生を振り返った時、こんな言葉が自分に相応しいのではないかと考えた。温厚な家庭で育ち、小学生ではサッカーの楽しさと競争意識、中学生ではサッカーへの情熱と勝利への貪欲さ、高校生では「サッカープレイヤーである前に人であれ」という言葉の元、団体意識・リーダーシップ・責任感について学んできた。そして大学サッカーでは思考力・判断力が大きく成長したと思う。小中高とそれぞれ40〜50人の同学年の仲間に恵まれ、カテゴリーの移動もたくさん経験してきた。そんな私だが、争いごとがあまり好きではない。サッカーを始めたころはCチームで、気づけば1年ちょっとでAチームまで上がることができた。上を目指すだけならば楽しかったが、仲間から追われる立場になったり、一生追いつかないだろうという実力を持った選手たちを見ることで、小学校高学年の頃からは、少し息苦しいと感じることもあった。試合には絶対に負けたくないしサッカーも上手くなりたい。しかし、そのためには仲間と争わなければならない。それは辛い。仮にプロサッカー選手まで上り詰めたとしても、自分のサッカーは他人からの評価に支配されてしまうのだろう。そんな思いを抱えながら高校までサッカーをしてきた。
そうやって周りばかり見ながら過ごしてきた自分だったが、高校で大怪我をしてサッカーから離れた期間を経たことで、大学サッカーでは自分にベクトルを向けることができるようになった。ここからは自分の大学サッカーについて振り返る。
大学2年の6月に入部して、サッカー部での自分の目標を「引退までにどこかのカテゴリーで1試合は出場する、そして大学サッカーを終えたときにやり切ったと胸を張って言えるようにする」と定めた。入部してから2週間くらいは大ブランクの影響で脚が攣りまくって大変だった。それでも入部してから約1週間で練習試合に出してもらって、感動したことは今でも覚えている。夏明けにはアイリーグに3試合出場することができ、自分の目標であった「どこかのカテゴリーで1試合出場」を早くも達成してしまった。練習強度や生活リズムにも慣れてきて、ここからは「自分がやり切るためにサッカーをしていこう」と決めた。練習後には自主練や筋トレをし始め、食事量や睡眠も意識した。サッカー部以外の友達からの誘いを断ることが増えたけど、それだけサッカーに熱中していた。気づけばあっという間に大学2年のシーズンが終了した。
2学年上の先輩方が引退し、1学年上にキーパーがいなかったことで、入部から約5カ月でキーパーの最高学年になった。この頃からGKファミリーである同期のこうた、1学年下のあやと、こうきと仲良くなれたと思う。3人とも高校時代に全国大会出てて能力も高いし、すごい人たちとやってるんだなといつも思っていた。2学年下のたき、さすけも入部してきて少しは上級生らしくなってきたと思う。3年ではサテBで20試合くらい出場させてもらうことができた。2年の時は途中入部したことを気にして遠慮しがちだったけど、3年からはチームに貢献したいという想いも持っていたと思う。入部したころは自分のためにサッカーをしたいと思っていたが、気づけばチームのためにという想いに変化していた。
4年生のラストシーズンはサテAで13試合に出場した。上位を目標としていたのに開幕5戦で4敗1分けと苦しい立ち上がりだった。それだけに、初勝利した立教戦の試合後は勝利した喜び以上に安心した気持ちが強かった。このラストシーズンでは「自分がやり切ったと言えるようにする」なんてことは忘れて、とにかくチームで勝ちたい、残留させたいという想いだった。
引退試合となったプレーオフで勝つことができず、後輩たちには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。それでも試合後に同期や後輩たちが感謝や慰め、労いの言葉を伝えてくれて、涙があふれた。この仲間たちと出会えてよかったと心の底から思った。サテAの4年生みんなからの言葉、そして涙の会のことは忘れないだろう。胸を張ってやり切ったと言える大学サッカーだった。
何を伝えたい文章なのか分からなくなってしまったので、振り返るのはここまでにしたいと思います。毎シーズン自分の試合に必死で、他カテゴリーには応援くらいでしか貢献できなかったですが、少しでもサッカー部に貢献できたのであれば幸いです。昨年の引退ブログで舜哉君が「サッカー部に何も残せなかった」という話をしていましたが、4年生が必死になってプレーしている姿というのは、後輩にとって印象に残るものです。私自身も何も残せなかったと思いますが、がむしゃらに練習して試合で熱くなる姿を少しは後輩たちに見せることができたと思います。特にキーパー陣、4年生2人がフィジカルでへばりながら必死に取り組んでいた姿を忘れずに、これから4年生になった時に「あの時の先輩たちも頑張ってたし、必死になってやるぞ」という気持ちで練習してくれたらうれしいです。
これでサッカー人生は一区切り。ですが、これからの自分の人生にも何かしらの形でサッカーが入り込んでくることでしょう。サッカーを引退して「第二の人生」を歩むなんて言いますが、サッカーを通じて得たものを活かすだろうし、何かしらの形でサッカーが入り込んでくる以上、サッカー人生は区切りがついただけでこれからも続いていきます。同期のみんな、これからも各々のサッカー人生を楽しんでいきましょう。
これまでサッカーを通じて関わってくれたみなさん、ありがとうございました。
いやー当たり前に朝起きてたし寝坊もしなかったけど、毎日眠いしきつかった。みんな寝坊しすぎ、もう少し頑張れよ。ピンクボールと紐のことは忘れないぞ、GK後輩たちのことよろしく。緑ヶ丘グラウンドは淵野辺駅から遠すぎる、雨の日は大変だった。さがキャンのグラウンド使えたら楽だったのに。同期も後輩もやばいやつだらけ、たまには静かにしてくれ。キーパーも変人多すぎたな。なんでこの1年間、どのカテゴリーも最後の方全然勝てなかったんだ。前線はとにかく決めてくれ、こっちはシュート打てないんだよ。練習の時にキーパーの真正面に弾丸撃ってるから試合で決めれないんじゃないの。てか、引退試合ってだいたい勝てるもんだろ。サテAの団結力すごかったぞ。
あー大学サッカーやってよかった、最高に楽しかったなー。
2024/12/15 10:32