青山学院大学サッカー部オフィシャルサイト

『足りなかった己の覚悟〜No.10〜』/高橋悠



まず初めに、日頃より青山学院大学サッカー部へのご支援・ご声援をいただき、誠にありがとうございます。
2025年シーズン、副主将を務めました、浦和レッズユース出身、社会情報学部4年の高橋悠です。
早いもので、約9年間過ごした浦和レッズを離れ、青山学院大学という新しい環境に飛び込んでから、あっという間に4年が経ちました。1年生の頃、大きくて偉大に見えた4年生の背中。気づけば自分がその立場になり、そして引退を迎えました。
今、何気ない日常の中でふとボールが恋しくなる瞬間、ようやく引退の実感が湧いてきています。
これまでのブログでは、
1年生では『チームの為のエゴイスト』
2年生では『俺がスタメンにこだわる理由』
3年生では『俺のサッカー人生 〜「このまま終わっちゃだめだろ。」〜』
といった題で、その時々の熱い想いを綴ってきました。集大成となる今回の引退ブログ。どんなことを書くか本当に悩みましたが、
「背番号10」と「足りなかった己の覚悟」
という2つの軸で、これまでのサッカー人生をどんな想いでやってきたのかを振り返りながら、書こうと思います。
語りたがりなところは、どうか今年も許してください(笑)。
自己満で、とてつもなく長い文章になってしまいましたが、興味のないところは飛ばしながら、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

2003年7月9日
群馬県で産まれ、その後、埼玉県の大宮で育ちました。
サッカーを始めたのは5歳。3つ上の兄の影響でした。
幼少期の自分は、とにかく負けず嫌いで、何をするにも「1番じゃないと気が済まない」性格でした。サッカーでも、自分が一番だと本気で思い込み、一人でドリブルで全部抜いて点を取って、コーナーも直接決めてみたいな“俺が俺が”のサッカーをしていました(笑)。
小学生では、大宮KSユナイテッド02サッカースポーツ少年団という地元のチームに入りました。この頃も「自分が一番」という自信は変わらず、CBをやって、後ろからひとりでドリブルして点を取るのが快感でした。負けるとふてくされ、コーンを蹴っ飛ばすなどものにあたり怒られ、終わってないのに試合中に泣いて怒られる。そんなことがしょっちゅうでした(笑)。
そんな自分を変えた“初めての挫折”が訪れます。それがトレセンでした。自分より上手い人達を目の当たりにし、「あ、自分は一番じゃないんだ」と思い知りました。周りのレベルが高すぎて、何も出来なかったのを覚えています。そこからは毎回ビビりながらトレセンに行っていました。でも、この経験が、初めて本気でサッカーと向き合おうと思ったきっかけになったと今では思います。
小学三年生になり、縁あって、初めて大宮アルディージャと浦和レッズのセレクションを受けることになりました。自分は訳も分からず受けた記憶があり、そんな人が受かる訳もなく、当然、その時は全然実力が足りず、不合格でした。そこからさらにサッカーへの想いが変わった気がします。悔しさをバネに、実力をつけるため、チームとは別に、クラブ与野というチームの下部組織のCRACKというサッカースクールに通うようになりました。そこでは、それまで学んでこなかった本格的なサッカーを教わり、技術を磨き、サッカーが上手くなっていくのを実感する日々を過ごしました。そしてその1年後、再びアルディージャとレッズ、両方のセレクションを受けることになり、浦和レッズの方で5次まで突破し、ようやく合格をもらい、入団することになりました。母が合格の電話口で仕事中なのにも関わらず涙を流した話を聞き、子供ながら合格出来て良かったと心から思いました。
この結果からもわかるように、この合格には、CRACKでの経験が大きく関わっています。
自分のサッカーの分岐点のひとつだと思っています。心から感謝しています。
小学五年生になり、浦和レッズJrに入り、自分のサッカー人生が大きく変わりました。サッカーをする場所は芝が当たり前になり、練習着も支給され、シューズも貰える。コーチ陣もプロで活躍された凄い方達ばかりで、周りの選手もレベルが高い。とても恵まれた環境に置かれました。最初は1番と言っていいほど下手で、練習についていくだけで必死でした。少しずつ慣れてきても、FWなのにシュートが入らない、オフサイドにたくさん引っかかる。そんな選手でした。だからこそ練習しようと思って早くグラウンドに行くようになり、そんな自分を見兼ねて、内館コーチがひたすらシュート練習に付き合ってくれていたのが懐かしいです(笑)。
六年生になり、この時初めて10番をもらい、着けた時の嬉しさは、今でも鮮明に覚えています。監督の工藤さんにしごかれながら、そこから徐々に自信をつけ、県選抜、ナショナルトレセン関東と選ばれるようになり、今プロで活躍しているような名だたる人達と切磋琢磨できるようになり、「俺は絶対プロになる」
本気でそう思っていました。

中学時代。
無事、浦和レッズJrユースに昇格し、新たに小学生時代に名を馳せた精鋭達が加わり、新たな仲間達との競争が始まりました。自分達の学年は全員で21人いて、試合に出るのは簡単ではなかったけれど、この時はナショナルトレセン東日本に選ばれたりと、良くも悪くも自信をつけており、周りには失礼かもだけど、「出て当たり前」「どう活躍するか」だけを考え、サッカーに向き合っていました。
中学2年になり、恩師と出会います。のぶさんは、良かったらとにかく褒めてくれるし、ダメだったら叱咤激励してくれる熱くて愛のある方でした。自分の熱さの原点はここにあるかもしれません。調子に乗り気味だった自分に対して、愛のある厳しさで接してくれて、些細な事でも自分のダメなところを厳しく言って頂いたことが特に自分には響き、常に「お前はそれでいいのか?」と問い続けてくれたおかげで、サッカーに取り組む姿勢も気持ちも大きく変わりました。わずか半年の指導でしたが、サッカー選手としても、人としても、一番成長できた時間だと思います。この時が1番サッカーが楽しかったし、いい意味で自信を持ってプレーできていました。正直、誰にも負ける気がしませんでした。
そこから、中学3年でも10番をつけさせてもらい、中学2、3年で最後の大会含め、全国3位を2度経験し、卒業しました。日本一は叶わなかったし、怪我もたくさんあったけど、最も成長できた濃い3年間でした。この時も「俺はプロになる」と本気で思っていました。

そして高校時代。
浦和レッズユースに無事昇格し、育成年代の最終ステージへ進みました。ユースに昇格が決まってから、なるべく早くAチームに上がり、プレミアリーグで活躍することだけを考えていました。しかし、現実は甘くありませんでした。
ユースに入ってからは挫折の連続。
ユースでの生活は、自分が想像していた以上に厳しく、フィジカルも技術もスピードも、すべてのレベルが一段違いました。自分のプレーが全く通用しない日々が続き、Aチームにも上がれないまま、気づけば高校最高峰のプレミアリーグの開幕を迎えていました。
それまで、FW一筋で生きてきたが、身長が小さいことで通用しなくなることも増え、どうすれば通用するか考え、もがいていた日々でした。そのひとつが他のポジションもやることでした。やすさんに「プレミアリーグで試合に出るためにもサイドハーフもやってみよう」と言われ、悔しい想いを持ちながらも、試合に出るにはやるしかなく、悔しさを飲み込みながらサイドハーフに挑戦しました。まずはプレミアリーグに絡むこと。そこだけにフォーカスして取り組んでいきました。その甲斐もあり、何とか1年生のうちにAチーム入りし、同期で1番早くプレミアリーグに出ることができました。それから、TOPチームの監督解任などの事情もあり、のぶさんがユースの監督になり、そこからは、プレミアリーグのベンチにコンスタントに入るようになり、多くの試合に出させてもらうようになりました。しかし、1点取っただけに留まり、それ以外は何も出来ず、怪我も重なり、結局スタメン経験はゼロ。チームとしてはリーグ3位で悪くない結果は残せたが、個人としては、もがき続けて、最終的には悔しい1年になりました。思い返せば、この頃から、気持ち的にうっすらと“プロへの道”が遠のいていた気がします。
2年生になり、「今年こそスタメンでチームに貢献する」そう意気込んで迎えた新シーズン。スタメンを狙える立ち位置で開幕に向けてやれていた。
しかしここで、コロナが世界的に流行り、活動が一時停止。難しい一年になった。
活動再開後、なんとか変則的に行われたプレミアリーグでは結局ベンチ。途中から出る選手になっていました。ここが途中出場キャラの始まりでした。スタメンに戻るチャンスをもらったりしたものの、活躍できず。前年に引き続き、度重なる怪我にも悩まされ、自分でも輝きを失っていくのを実感していきました。気付けば、自信を失い、自分らしいプレーが全くできなくなり、
「本当に俺はプロになれるのか?」
そんな気持ちが芽生えていました。
高校3年。
いよいよ自分たちの代。再び、10番を付けさせてもらい、覚悟を持って挑んだ。しかし、その矢先、また怪我。
再び出遅れ、TOPチームのキャンプにも行くことができなかった。同期の中には参加している者もいて、焦りと悔しさで押しつぶされそうでした。結局、プレミアリーグ開幕にも間に合わず、最初の数試合はベンチ。
同期や後輩がプレーしている姿を見て、
「俺は何をやってるんだ」
と情けなさと悔しさで何度も涙が出そうになりました。
それでも、チームの事を考え、与えられた立場でやり続け、数試合スタメンのチャンスをつかみ、夏の全国大会ではスタメンとして3位という結果を残せた。この時は、少しだけ自信を取り戻したように思います。
けれど後期リーグが始まると、また途中出場の立場に戻っていました。そして、後期の青森山田戦。人生で初めて、ベンチ入りをした試合でピッチに立つことができず、ピッチを外から眺めて終わった。ここが、人生で最も大きな挫折でした。ピッチの外から眺めるしかなかったあの景色は、今も脳裏に焼き付いています。そこからしばらくは練習にも身が入らなくなってしまい、のぶさんにも心配されるようになってしまいました。試合に出られない人からしたらそんなので挫折するなよと思うかもしれないが自分にとっては大き過ぎる出来事でした。
飾りだけの10番。それが似合う選手だったと思います。
結局、TOP昇格は叶わず。
“最もプロに近い場所”にいながら手が届かなかった現実は、胸に突き刺さりました。プロの壁の高さを改めて思い知らされ、約9年間過ごした浦和レッズを卒業しました。
「プロサッカー選手になりたい」
と自信を持って言えなくなったのはこの頃からだと思います。

大学時代になります。
新たな環境として青山学院大学サッカー部を選び、入学しました。
青山学院大学を選んだ理由は、
「プロを目指しながら、セカンドキャリアの為に学力の高い学校に通いたかった」
というものでした。
今思えばこの考えも甘かったのかもしれません。ただ、現実主義の自分にはこの選択しかできませんでした。
そしてもう1つ、
「新たな環境で、もう一度、自分を取り戻したい」
この思いでした。
「プロサッカー選手になりたい」と自信を持って言うことはできなくなっていたかもしれないが、夢を追うことを諦めたわけではありませんでした。高校で失った自信を、新たな環境に身を置くことで、取り戻せるかもしれないと信じ、プロを目指す最後の4年間だと覚悟を決め、新たな環境でスタートを切りました。
サッカー部に入ると、「レッズの10番って凄くね」って言ってくれる人もいて、改めて自分が歩んできた道を実感する瞬間もありました。でもその時の自分は、自信をかなり失っていたし、プロになれず、スタメンであんま出ていなかったこともあり、気まずい気持ちでいっぱいでした(笑)。けど、プレミアで大活躍していた星太に名前を知られていた事だけは、素直にめちゃくちゃ嬉しかったのを覚えています。
2022年3月22日。雪の中、地獄の神田トレから自分の大学サッカーが始まりました。コロナの影響で始動が遅く、まさかフィジカルトレーニングからスタートだとは思わず油断していて、想像以上にきつくて「いやキツすぎだろ」と同期と愚痴っていたのを覚えています。
そしてきついのやだなーと思って迎えた翌日、まさかの高熱。活動2日目にしていきなり離脱という伝説を残しました(笑)。その頃は大輝しか知り合いがおらず、大輝がお見舞いになんか買っていくよと言ってくれて、ほんとに助かりました。ただ、その中にアイスがあって、自分の常識では信じられなくて、「絶対ふざけてるだろ」と思っていたら、本人は真顔で「アイス食うと風邪治る」と信じていて、衝撃を受けたのは今では良い思い出です。
自分が次に顔を合わせたのは入学式で、同期がすでに仲良くなっている中、自分だけ輪に入れないような寂しさがありました。そんな中、同じ学部の徳原だけが連絡をくれて、優しく接してくれて、その時だけは「こいつ、優しいし良い奴だな」と思いました(笑)。
そこから本格的に新しい環境での活動が始まり、すぐに関東リーグが開幕。スタンドで初めて観た開幕戦の衝撃は忘れられません。青学の強さ、選手の上手さ、特に響くんとりゅうとくんの2ボランチの存在感に圧倒され、自分がこの中でできるのかと不安になりながらも、「早くこのピッチに立ちたい」と強く思いました。
自分はサテAからのスタートでした。部活という形でサッカーをやるのが初めてで、まず部員が沢山いることが新鮮でした。そして、プロを目指すだけが全てじゃない人達もいる中でのサッカーに触れたことで、純粋にサッカーを楽しむ気持ちを取り戻せました。これは自分の中で非常大きかったです。そのおかげか、肩の力が抜け、中学の頃のように自信を持ってプレーできるようになり、レベルの高いIリーグでも得点を重ね、結果を残すことができました。
その流れで、夏にトップチームに昇格し、アミノバイタルでデビューを果たしました。そこから、関東リーグデビューも果たし、コンスタントに試合に出るようにもなりました。そこまでは順調で、良い流れだったが、そこから、再び高校時代に戻ったかのように、途中出場。スタメンは達也くんが怪我して急遽出た明治学院戦の1試合だけ。それも後半5分で足がつって担架で運ばれ、応援席の前を通る屈辱(これも伝説)を味わうことになりました。それもあり、“途中出場キャラ”は高校時代から変わりませんでした。それでも「まぁ、まだ1年だし」と自分を納得させていました。 
2年になると、空斗や星太、倭門がスタメンで出るようになり、その姿を見るたびに心のどこかで焦りが生まれ始めました。「このままじゃ高校の時と同じになってしまう」と。それなのにも関わらず、またもや怪我が重なり上手くいかず。焦る気持ちだけが高まり、結局立場は変わらないままシーズンが終わってしまいました。さらに、この年、チームは3部リーグに降格。何も出来なかった自分の情けなさや、プロが遠のいたという現実、悔しさなど色々な感情が混ざり合って涙が止まらなかった。思い詰め過ぎた結果、1人で車を借りて、海まで行って泣くということをしました。今思い返しても「我ながら何してんだ」と思います(笑)。ですが、それくらい悔しくて大きな出来事だったんだと思います。
「このままでは終われない」と3年になり、何かを変えたいと思いサイドバックにも挑戦したりして、自分を成長させようとしました。しかし、この年主将の磯村慶人、そしてずっと背中を追いかけてきた木下翼という2人の大きな壁は高かった。その壁を越えられず、前期は再びほとんど途中出場。これまでと同じになってしまいました。それでもこの時の自分はこれまでとは違う感覚を感じていた。何かを変えなければいけないと強く思い、新たな挑戦をたくさんしたことで、成長した感覚を得ていたからです。すると、後期になると怪我は抱えていたものの、スタメンのチャンスを得ることができました。自分としては満足するプレーをすることができ、そこからやっとの思いでスタメンに定着。チームとしては思うようなシーズンにならなかったけど、個人としては成長と手応えを実感できたシーズンにすることができました。
そして迎えた最終学年。副主将を任され、さらに、背番号10を志願し、「今年こそはチームを2部に、そして、個人としてはプロになれる最後のチャンス」と覚悟を持って新シーズンに臨みました。
しかし、現実は残酷でした。始動して1週間。
神大とのトレーニングマッチでスプリントをした瞬間に、もも裏に何かで殴られたような衝撃が走り、わずか1週間で肉離れ。頭が真っ白になりました。チームに申し訳ない気持ちともう時間が無いという焦りしかありませんでした。中々すぐには切り替えられませんでした。そんな自分とは裏腹に、チームは順調。トレーニングマッチで1部相手にも勝ちを重ねていました。そんな中自分は、素直に喜べず、「自分の居場所はないのでは」と不安になっていました。厚さんは「関東リーグに間に合えばいい」と言ってくれていましたが、それでも不安と焦りはなくなりませんでした。
そして復帰目標としていた韓国遠征。
状態次第ではTOPチームに戻すと厚さんと話していた中で、まずはサテライトで試合に出場することになりました。やっとここまで来て、やっと戻れると思った矢先でした。開始10分で再び同じ痛み。酒井さんに交代を要求し、ベンチに座りました。頭を抱えるしかありませんでした。「関東リーグには間に合わない」。瞬時にそれだけが脳裏に浮かびました。宿舎に戻って、TOPチームの選手と合流し、厚さんと星太と再発したことを話した。心配させないように「またやっちゃいました」と無理して笑いながら言った。もちろん2人は心配してくれて、「焦らなくていいからしっかり治して欲しい」と言われたけど、いい加減、戦力として考えられなくなるのではないかと思い、悔しくて不安で仕方なかった。厚さんはそんな自分を見兼ね、怪我した俺をチームの輪から離れないようにと、あえてTOPチームに帯同させてくれました。その時の自分にとっては、これが気持ち的に非常に大きくて、なんとかメンタルを保つことができていました。おかげでとにかく怪我を1日でも早く治そうと切り替えられました。
韓国遠征が終わり、カテゴリーが再編成される時、ゆうとさんから連絡があり、「怪我のことがあるからサテBから焦らずコンディションをあげて欲しい」と話をされ、サテBからやることになりました。せめてもサテAからかなと思っていたけど、サテBと言われ、初めてのサテBだったから、言われた時は「まじか、そうだよなー」と思っていた。でも、今思えば焦らず怪我を治せたのでいい期間だったと思います。木村と安藤も怪我の影響もあり、一緒にサテBにいたことが心の支えでした。助かりました。
そして、迎えた関東リーグの開幕。
関東リーグ開幕だけに照準を合わせ、慎重に調整してやっていたこともあり、開幕1週間前に何とかTOPチームに復帰し、間に合わせることができました。開幕までの期間をほとんど一緒に過ごせていない中で受け入れてくれたTOPチームの選手達、そして、快く送り出してくれたサテBの選手達にはほんとに感謝しています。
そして、最後の関東リーグが開幕しました。ただ、チームは開幕前のようには上手くいかず、2節終わって勝ちなし。自分も怪我の状態はあまりよくありませんでした。3節目、厚さんと話し、「怪我の状態はあると思うけど、次の試合だけ一旦スタートで行ってくれないか」と言われ、不安はあったけど、チームの為に戦える自信はあった自分は、迷わず「足が引きちぎれてもやります」と言いました。こんな自分でも信頼してくれた厚さんの期待に応えたかったし、怪我していた時には想像もできなかったことだったから、嬉しくて仕方ありませんでした。結果、チームはシーズン初勝利をすることが出来ました。自分なりに期待に応えられた気がして、素直に嬉しかったです。そこから2試合休息をもらい、その後は大きな離脱もなく、ほぼ全ての試合にスタメンで出場。去年までの自分だったら信じられないシーズンを送ることができました。最後のシーズンにしてようやく力を発揮でき、チームに貢献出来ている実感を得ることができました。これを高校の時からできていたらと何度も思ったけど、怪我も含め、それも自分の実力だったのだと思います。
そして迎えた最終節、他会場の結果次第だったが、昇格に向けては、まず勝つことが絶対条件。後輩達に何かを残さなければいけないという思いしかありませんでした。試合が始まり、身体はいつも通り動くし、何なら調子も良かった。今日はいけるなという感覚もありました。そんな中、前半15分、ドリブルで縦突破した時、もも裏に過去感じたことのある痛みを感じました。「あ、終わった」と悟りました。ただ、最後の試合このままじゃ終われないと思って、脚がひきちぎれても無理してでもやらなきゃと思ったけど、体は正直で、そんなやり切れる程の痛みではありませんでした。その後、ワンプレーやり終えて、厚さんに交代を要求し、倒れ込みました。空を見上げたその瞬間、涙が抑えきれなくなってしまいました。チームに対する申し訳なさ、自分への情けなさ、17年間のサッカー人生、色んなものが重なって一気に押し寄せてきました。心配させないように涙を堪えるべきところだったのにも関わらず、堪えきれませんでした。倭門に「まだ終わってないよ、泣くなよ」と言われて申し訳ない気持ちで仕方なかったがそれでも止まりませんでした。しばらくベンチで顔を上げることが出来ませんでした。何とか感情を抑えようとしていたら、「安藤試合に入れよ」という俺の代わりに入った安藤への指示だけ聞こえました。その後すぐ相手の喜ぶ声だけ聞こえました。信じたくなかったけど、失点してしまったのだとわかりました。失点シーンは見てないけど、後々安藤のバックパスから失点したということを聞いて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。安藤ほんとにごめん。安藤のサッカー人生に一生忘れられないようなプレーを生んでしまったことが俺のひとつの後悔です。そして、そのまま試合終了。後輩達に何も残せず、ただ申し訳ない気持ちと悔しい気持ちでいっぱいでした。今年のチームは本当に自信があったし、2部に行く力があると思っていました。それでも足りなかった。幹部として、試合に出ていた身として、そして10番を背負わせてもらった身として、責任を感じています。本当にごめんなさい。後輩達は、来年はこの経験を無駄にしないで心から頑張って欲しいと思います。
怪我で始まり怪我で終わった最後の1年。自分の引退試合はわずか20分。これが自分だなと思ったし、これが実力だし、現実だなと思った。これまでのサッカー人生、怪我が多かった自分にとって、最後の1年、開幕してから長期の離脱なく多くの試合、出られただけでも奇跡だったのだと思います。

そして引退。
自分は青学の入学試験の面接で、「青学のサッカー部そんなに強くないのになんで青学なの?」と聞かれた時に、真っ先に「自分が強くします」と答えた。青学が強くないとは思っていなかったけど、直感的に出たその言葉は自分の覚悟だった思います。この4年間で、副主将を務めさせてもらったり、10番をつけさせてもらったりした中で、その通りにはできず、後輩たちには何も残せなくて申し訳ない思いでいっぱいだけど、青学での4年間、青学サッカー部の為に動いた日々は自分にとってはとても大きな財産でした。

また、題名に入れた「No.10」。
自分は、各年代で、10番をつけさせてもらいました。10番はサッカーでいうエースナンバーで、結果を残さなければならない背番号です。それをずっとつけてきて、高校では結果を残せず情けない思いをしました。
だからこそ、最後の年、自分にプレッシャーをかけるためにも10番にこだわり、志願してつけさせてもらいました。最後こそはと思ってやっていましたが、結果、チームを勝たせることはできませんでした。青学でつけた10番も「飾りの10番」で終わってしまいました。情けない気持ちしかありません。
結局、期待に応えることができないことが多かったけど、10番の重圧を背負いながらやったことは自分を大きく成長させました。こんな自分にこれまで10番をさせてくれて感謝しかありません。ありがとうございました。

そして、もう一つの題、「足りなかった己の覚悟」。
この17年間のサッカー人生で、結局、「プロサッカー選手になる」という1つの大きな夢は叶えられませんでした。では、なぜ叶えられなかったのか、自分なりに考えてみました。
その1番が「覚悟」でした。
これまでの人生、サッカーの為に多くのことを犠牲にしてやってきました。プロサッカー選手になる覚悟を持ってやってきていたつもりでした。しかし、それは単なる「つもり」でした。自分にはこれからの長い未来で、これまでと同じようにサッカーの為に様々なものを犠牲にする、そして、それで食べていく「覚悟」が足りませんでした。才能であったり、怪我であったり、環境であったり、色々原因はあるかもしれないけど、そんなのはただの言い訳で、結局はそこだと思います。絶対プロになるという覚悟、これからの人生の全てをかける覚悟。それが圧倒的にプロになった人達に比べて足りなかったと思います。
17年間やり切ったという想いはあるけど、この覚悟も含め、後悔がないかと言われたらそうではありません。正直沢山あります。けど、それでも前に進むしかないと今は思っています。後悔がない人生があったらいいけど、俺には性格上そんな人生送れないと思うし、もちろん、後悔しない為の努力は必死にするけど、俺はこれからも後悔することがあると思います。それでもサッカーで立ち止まることがなかったように、それも人生だと思って前に進み続けたいと思います。
現時点で夢を叶えられなかった理由を考えても遅いかもしれないけど、この話が誰かの為になればいいなと思います。

自分が大切にしている言葉のひとつをここに紹介したいと思います。
「最後に残るのは仲間」
これは恩師に言われた言葉のひとつです。
卒業や引退、環境が変わったりしても、結局最後に変わらず残るのは仲間であるということ。のぶさんに言われたこの言葉が、今、胸に深く刺さっています。これまで自分と出会ってくれた全ての人々に感謝しかありません。
そして、青学の同期、後輩、マネージャー、最高の仲間達でした。出会ってくれて、そして、最高の4年間をありがとう。
サッカーが好きでもちろんこれまでやってたけど、それ以上にサッカーを通じて出会える仲間やその仲間とサッカーをやることが好きだったんだと今心から思います。
これからも一生その最高の仲間を大切にしていきたいと思います。


ここからは個人的に。

同期
星太、大輝、倭門、空斗。4年間、一緒にいた時間が1番長かった4人。切磋琢磨して、幹部として一緒に戦えてよかった。
安藤、直也、登爽。4年4人でWB競えてよかった。3人の存在が常に刺激だったし、自主練が成長に繋がった。感謝しかないです。
乃安、大屋。3人で行った温泉はめちゃくちゃいい時間でした。
徳原、和成。同じ学部で一緒に授業受けて、楽しかった。
残りの深いことは感謝の気持ちで書いてます。

後輩
田口裕真。1番可愛がったと思います。いつもふざけてばっかで舐め腐ってるけど、かまちょしてくれて嬉しかったよ。お前のまっすぐさ忘れずに、プラスの声だけ耳をしっかり傾けて周りに流されず我が道を行けば絶対大丈夫。期待しかない。頑張れよ。
木村、和田。2人が後ろにいてくれて、本当に心強かった。ありがとう。木村はやらかしたり、集中力きれたりすることもあったけど、本当に心強かった。木村の持ってる能力は魅力的だし、羨ましい。だからこそ、それをもっと磨いてもっと成長して欲しいと思う。がんばれ。和田は怪我なく、WBとして、得点王とアシスト王目指して頑張れ。
はやま。今年はほんとに苦しいシーズンになってしまったかもしれないけど、少しでも同じWBで一緒にプレーできて良かった。キャプテン頑張れ。
駿。全然可愛げはないけど、レッズの後輩として、誰よりも必死に練習して、チームを引っ張っていってくれることを期待してます。今はリハビリきついかもしれないけど、一生懸命リハビリしてること知ってるし、乗り越えて必ず活躍して、プロ決めてください。頑張れ。
東舘。大翔はもっと自分に自信を持っていいと思う。楽しそうに自信を持ってプレーしてる時の大翔は誰も止められないと思う。天皇杯見てよりそう思った。俺の後、10番を大翔が継いでくれたのはほんとに嬉しいし、期待しかない。応援してる。頑張れ。
大知。ちっちゃくても戦えることを証明して欲しいなと思います。お前は上手いから大丈夫。社情の後輩として、期待してる。サッカーも卒業も頑張れ。
長くなっちゃうからここには書ききれないけど、後輩たちにはほんとに期待してます。3年はこれから最後の年だし、1.2年生も自分達の代の立ち位置を決める大事な年になってくると思います。後悔ないように頑張ってください。

厚さん
こんな自分を4年間信じて使い続けてくれてありがとうございました。
厚さんを胴上げできなかったのは後悔だけど、一緒に最後まで戦えてよかったです。
お世話になりました。

家族
サッカーを始めさせてくれて、何不自由なくサッカーをさせてくれて、応援してくれてありがとう。それなのに、期待に応えられなくてごめん。これから違う形になるかもしれないけど、恩を返せるように頑張ります。


長くなりましたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。
最後に、サッカー以上に感情が昂り、楽しんで、熱中することは今後ないと思います。
サッカーをやって良かったと心の底から思います。
今後、サッカーをする事が当たり前だった日々がなくなるのは正直怖いですが、新しいステージで頑張りたいと思います。

17年間、そして、青学の4年間。
自分一人だけではここまで来れなかったと思います。周りに支えてくれる人がいたから頑張れました。それを感じてからか、自分の為だけではなく、応援してくれる人の期待に応えたいという思いでサッカーをするようになりました。そのおかげで最後まで頑張れました。感謝しかありません。
傍から見たらエリート街道だったかもしれません。しかし、その道も苦難の連続でした。でも、その度に悩みもがき苦しみ乗り越えてきた日々は、最高に幸せでした。
本当に、ありがとうございました。

高橋悠
2026/01/09 17:27
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