『2分の1』/ 松本遼成
「おれ野球続けることにする」
サッカー選手と野球選手の二刀流を目指していた小学校低学年。
両方続けるのは無理だと感じた小学5年生の自分は、悩みに悩んだ末、両親に野球選手を目指すと伝えた。
チームでは4番でキャプテン、地区のオールスターにも選ばれていた自分には野球の方が才能あると思っていた。
それにサッカー選手より野球選手の方が稼げるって聞いてたから。
でもある日、ふと思った。「野球って練習つまんなくね。これをあと何年も続けなきゃいけないの。」
サッカーより練習では走らされるし、キャッチボール、ノック、素振りという練習しかさせられない毎日が本当に楽しいのか?
小学生ながらになんとも野球に対するリスペクトのない問いが浮かんだ自分は、そんな消去法から最終的にサッカーを続ける選択をした。
こんにちは。日大藤沢高校出身、地球社会共生学部4年の松本遼成です。
引退して1週間が過ぎました。興味本位で髭を伸ばそうとしたところ、1週間経っても全く髭が生えてこないことに気づき、木下、盛、栗原の偉大さを実感しているところです。それはさておき、ついに僕も引退ブログを書く年代になってしまいました。同期のブログを見ていると、より引退を実感していますが、自分も最後くらい真面目にこれまでのサッカー人生を振り返りたいと思います。
長くまとまりのない文章ですが、時間ある方は是非。
今振り返ってみると、あのときの選択は間違えてなかった。
これまでのサッカー人生を通して、最高のチームメイトに出会うことができ、最高の瞬間を共にすることができたから。
あのとき野球を続けていたら、こんなに充実した気持ちで今日を迎えることはできなかったと思う。
小1からの16年間、サッカーというスポーツを続けられて本当によかった。
しかしそんな私のサッカー人生にも1つだけ忘れられない出来事がある。
2020年11月8日
県大会準決勝 vs桐光学園
結論から言うと、PK戦の末、敗れた。
外したのは私である。
自分がPKを外し、選手権優勝の夢を途絶えさせた。
部員全員の想いを私が終わらせてしまった。
私はこの試合を忘れることはない。
今でも「あのPKを決めて私たちが勝っていたら」ということを考える。
あのメンバーなら本気で優勝できていたのではないかと思う。
最高の同期と充実した高校生活を送ることができた3年間だったが、あの1つの出来事で悔しい気持ちで終わってしまった。
私が大学でサッカーを続けた理由は、あの日の悔しさを忘れられないからだ。高校サッカーでは結果を残せなかった。
だからこそ、大学サッカーで結果を出す。そう思って入部した。
しかし待ち受けていたのはまったく勝てない日々。所属したサテAでは毎回大量失点。1年間で1勝しか出来なかった。
よく帰り道に高校からの同期の小峯と2人で
「俺達ってどうやってサッカーしてたっけ?」
っていう話をしながら帰ってたのを覚えてる。(いつの間にかいなくなってたけど、、)
続く大学2年時には、少しずつ関東リーグに出場することができた。
関東リーグ6連勝に微力ながら貢献出来たり、新人戦で勝ち進んだりと充実した1年間だったと思う。
しかし、「今年こそは主力として関東に出場するぞ」と意気込んだ3年生。
腰の怪我で約半年間離脱してしまう。これまで大きな怪我をしてこなかったため戸惑いも大きく、みんなのプレーしている姿が羨ましいと毎日思っていた。
腰の怪我から復帰後、ありがたいことにトップチームで復帰させてもらえた。
体力の衰えはあったものの、自分としてはプレーの調子がかなり良く、トップの成績も不振だったため、すぐ関東リーグのメンバーに絡めるだろうと思っていた。
しかし、去年を知っている人は分かると思うが、関東の試合内容が酷く、惨敗しても、メンバーが変わらない。
どれだけ練習で調子が良くても、どれだけ練習試合でいいプレーを見せても、メンバーにはなかなか入れない。そんな状況だった。
私もこの状況に納得できなく、監督に対して自らサテAに落としてくださいと懇願した。
怪我明けでプレー時間が少しでもほしかった自分には、出してもらえるか分からないトップチームに居続けるより、Iリーグで出場機会を得ることの方が重要だった。
私はこの時の行動は正解とも不正解とも思ってないが、10月中旬に練習前のストレッチでアキレス腱を怪我をして3か月の離脱と宣告され、私の3年生が幕を閉じるまで、夏の金沢遠征やIリーグでの戦いはとても充実したものにすることができた。
試合に絡めない。調子が良くても試合に出れない。
後輩たちはこれからも、このような現象を経験することがあるかもしれない。もしくはもうたくさんしてきたと思う。そんな時にどう立ち振る舞うかはやっぱり大切だなと思う。ただ人のせい、相手のせいにして愚痴だけ吐くのは簡単。ベクトルを他人に向けるのではなく、いかに自分に向けて過ごすか。何回も言われてきて分かっていると思うが、いざそのような状況になると難しいことも多い。
みんなはうまいしポテンシャルあるからこそ、腐らず前向きに取り組んでほしい。そうすればチームも絶対強くなる。頑張れ。
少し話を私自身に戻すが、結局私は3~4年生の2年間で7度離脱をした。グランドでプレーするよりもリハビリ期間の方がはるかに長かった。
いつの間にかハセと並ぶ怪我人常連者としてノミネートされ、「リハビリ待ってますよ。そろそろ離脱っすか。おかえりなさい。ただいま。もう引退ですか」っていう謎のノリをよくするまでになってた。そしておそらく自分がアスリハ最多実施者だろう。
離脱をするたびにメンタル的には大変きついものがあった。そんなとき、吉田麻也がなんかのインタビューで「代表でだれよりも冨安が身体のケアをしている」って答えたのを聞いた。そこからは「そんな冨安もまた怪我してるからしょうがない。」って言い聞かせてリハビリしてた。
もう1つ、引退前の7度目の怪我について触れたいと思う。
私は引退のちょうど4週間前に怪我をした。(これは完全に自分のせい)
次の日病院で診察を受けたら、先生から「全治10~12週間。たぶん引退の日までにサッカーはできないと思うよ。」っていう趣旨のことを言われた。
「意外と重症だな。」とも思ったがそれと同時に
「なんだ。けどゆうて10週間か。なら無理してやればなんとかなるな。」くらいに楽観的だった。正直この先歩けなくなろうが、ここで先に引退する方が後悔するなって思ったから。
同期がいろんな想い背負って最後プレーしてんのに、先に離脱すんのは違うな。
後輩がチームの為に毎日一生懸命練習してんのに、投げだすのは違うな。
みんなと最後までサッカーしてたいな。
そんな想いで、怪我をしながらでもラストまでやり切ろうと決意した。(結局2週間はプレーできなかったけど。)
そうして迎えた関東リーグ最終節。プレーオフの可能性を信じて戦い切った。そして試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、「まだもう1週間みんなとサッカーできる。」そう思った。しかし、結果はそんなに甘くなかった。
青学のみんなと最後まで戦いたかったし、後輩に2部という舞台を用意してあげたかった。
他チームの結果を聞いた後はその想いでいっぱいだった。
あっけなかった。
私の大学サッカーを振り返ったときに最初に出た言葉はこれだった。
高校時代に抱いた悔しい想いを大学でぶつけようと思って入学した。そして入学時に思い描いていた大学サッカーでは、もっと試合に出場しているはずだった。
「もう怪我はしない。」そう思って復帰して、朝早く緑が丘に来てケアを行っても、次は違う個所を痛める。その繰り返しだった。
結局、ラストシーズン出場した関東は5試合。
副キャプテンの役割は本当に果たせたかと聞かれても自信はない。
でも、それ以上にかけがえのない瞬間に立ち会うことができた。
練習終わりグランドでみんなと話す時間、筋トレルームで普段話さない後輩と話す時間、アイシングしながら大富豪する時間、分析のあと幹部4人であれこれ言いながら帰る時間。
個人的には、カテゴリー関係なく、ゴールが決まったあとに応援団がピッチに入って歓喜する瞬間が大好きだった。
特に、サテAの法政大戦。サテBの東海大戦。最高でした。
そしてなにより、大学生になってもサッカーに本気で打ち込むことができた。
だから後悔はない。
最後に。
山浦さん、伊藤さん、治療に関わってくださった方々。
みなさんの治療がなければ私は最後ピッチに立つことのないまま引退を迎えていたと思います。みなさんのおかげで最後の関東リーグで90分間戦い切ることができました。このご恩は一生忘れません。本当にありがとうございました。
両親
あなたたちのサポートのおかげでここまでやってこれました。
ありがとう。
また別でじっくりと書きます。
同期
みんなが同期で本当に良かった。
野球かサッカーどっちを続けるか迷った小学時代。
いま胸を張ってサッカーを選んでよかったと言えるのは、サッカーを通して出会ったみんながいたからです。
改めて関わってくださった皆さん、ありがとうございました。
これからもみんなよろしくね。
P.S. PKはしょうがない!!
松本遼成