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インド移籍への道のり(監督 末岡龍二)


「俺、引退するわ。だから最後の試合観に来てよ。」

 
2009年10月、タイプレミアリーグ のバンコクユナイテッドに所属していた私はこのシーズンをもって、8年間のプロ生活を終える決意をし、山口に住む両親にタイから電話でそう伝えた。バンコクユナイテッドでなかなかレギュラーを奪えず2年間で公式戦1ゴール。アタッカーとして自信を失っていたし、30歳にもなって薄給でサッカーを続けるのは生活面でも現実的ではなかったのでここで区切りをつけようと思った。高校時代、無名どころかサッカー同好会でプレーした私がJリーグを含むプロサッカー選手として8年もの間プレーできたこと自体誇りを持って良いことだと自分自身に納得もいっていたし、今までサッカーを続けるにあたりずっとサポートしてくれたことへの感謝の気持ちと最後の勇姿を見てもらいたくて両親をタイに呼んだ。
 
その試合は最終節のアウェイ戦。この試合に負ければ2部リーグ降格という状況の中私はベンチスタートで、チームは先制点を奪われる。0−1ビハインドの状態で後半ラスト20分、監督に呼ばれてトップ下に入りドリブルから流れを変え、試合終了間際に同点弾が生まれた。試合終了のホイッスルが鳴り、バンコクユナイテッドの1部残留が確定した。残留の喜びをアウェイまで駆けつけてくれた多くのサポーターと爆発させ、両親も一緒にこのセレブレーションに参加し楽しんでくれたのでもう思い残すことはなかった。チームバスでバンコクに戻り帰国するまで1週間、残りのタイでの生活を楽しんでいた。そんなある日、

 
「末さん、インドのクラブがストライカーを探しているんすけど、興味あります?」

 
電話をかけて来たのは、当時インドリーグで活躍しのちにインド代表にも選出される日本とインドのミックス、和泉新(アラタ)だった。アラタはアルビレックスシンガポールの後輩で一緒にプレーしたことはなかったが、彼も山口県出身ということもあり互いに知る間柄だった。そんな彼との出会いは、前年のシーズンオフに私はタイから彼はインドからシンガポールへ遊びに行き、オーチャードの道端でたまたま遭遇し、一緒にランチをして連絡先を交換したという流れだ。シンガポールがいくら小さい国とはいえ奇跡的な出会いだったことは言うまでもない。
 
既に引退を決めていた私だが、アラタからの一本の電話でほぼ消えていた現役生活へのアドレナリンがもう一度ブワっと溢れ返って来た感覚は今でも覚えている。すぐにインドはゴア行きのエアチケットを手配し、ムンバイ経由で現地に入った。勿論人生初のインドだった。
 
ゴアの空港にチーム関係者が出迎えてくれて車を走らせること30分、ゴアの州都パンジムに到着。街でランチをとり(勿論カレー)、ホテルへチェックイン。意外と言っては失礼かもしれないが、意外と綺麗なホテルでその日はぐっすり眠ることができた。
 
次の日から早速チーム(Sporting Club de Goa)でのトライアルがはじまった。Sporting Club はシーズン半ばで成績が悪く外国人選手の補強が急務だった。初日の練習に参加してみて、正直「契約いただき」と思った。外国人枠としてナイジェリア人4名、インドネシア人1名、アメリカ人1名が練習参加していたがどの選手も私の方が力は上だとすぐに悟ったので契約は時間の問題だと確信していた。しかし、来る日も来る日も一向に話が進まない。痺れを切らしてこの練習参加はいつまで続くのかとチーム幹部に聞きに行くと、ナイジェリア人FW3人はシーズン最初からの契約が残っていて、今はDFの選手を探している。明日別の日本人DFが練習に合流するよ、と聞かされる。その時、まさかこのインドの奥地でアルビレックスのチームメイトだった新井健二(アラケン)と顔を合わせるとは思いもしなかった。
 
翌日、アラケンがSporting Clubに合流した。シンガポールリーグでセンターバックとして大活躍しタイトルを総なめにしていた彼は、すぐにチームと契約をした。外国人枠はすべて埋まってしまった。数週間前タイで引退を決意し、気持ちを新たに国を変え再挑戦したが、このザマはなんだ。プロの世界での移籍はこういうもの(実績・スタイル・タイミング)だと頭では分かっているが、心はそうはいかない。なんともやるせない気持ちになり荷物をまとめ、ひとりバスに乗り込み逃げるように北ゴアの奥地へ向かった。そこはヒッピーの聖地アンジュナビーチ、マリファナの匂いがした。
 
失意のどん底にいた私は適当に安いゲストハウスにチェックインし、ぼーっと部屋の隅にある小さなテレビを眺めていた。何度もチャンネルを変えているとサッカーの試合が放送されていた。インドリーグの試合だった。しばらく見ていると
 

「ん?この顔どこかで見たことあるぞ。」

 
その人物はカリム・ベンチャリファ。モロッコ人のカリム監督はシンガポールのオールスターゲームで彼が監督として選出され、当時アルビレックスシンガポールでプレーしていた私をリストアップしてくれて1試合共に戦った。その後、一度シンガポールのWoodlandsというクラブで彼が指揮している時、トライアルに参加したが契約には至らず。あれから4年。テレビの中とはいえ、インドの僻地で彼を見るとは想像していなかった。彼がシンガポールを離れインドリーグのクラブで指揮していることをこの時はじめて知った。
 
Woodlandsでの練習参加のやりとりでカリム監督のメールアドレスは知っていたので、今の状況をメールで説明するとすぐに返信が来た。
 

「今アジア人選手を探している。すぐにコルカタに来てくれ。エアチケットは用意する。」
 

すぐに荷物をまとめて、アンジュナビーチを離れゴアからコルカタへ1700km超、インドの西から東へ飛んだ。翌日早速トレーニングマッチが組まれていて、その試合で2ゴールを決めた。事務所に呼ばれ契約書にサインした。それはMohun Bagan ACというクラブで、ダービー戦では10万人のサポーターでスタジアムを埋めるインドのビッグクラブだった。その日から6年、36歳までにインドリーグ優勝、インド年間最優秀選手受賞、AFCカップ3位など、フットボールで世界中を飛び回り、言葉や涙では表せないほどの身に余る栄誉を手にすることがきた。インドリーグ在籍6年間で4年間はカリム監督の下でプレーし、最後は在籍クラブが消滅しお互いインドを去った。
 
数週間前、久々にカリム監督からWhatsAppで連絡があった。日本の大学サッカー部で監督をしていて昨年1部リーグに昇格したことを伝えるととても喜んでくれた。彼はインドを去った後、モロッコ女子A代表監督に就任し、今年は新たな挑戦を目論んでいると相変わらず野心的で強気なメッセージだった。
 
幸運にも私は今でもフットボールの世界に身を置き、毎日若者と切磋琢磨している。海の向こうでも、文化・言語・宗教・価値観は様々だが同じように毎日人々がフットボールに一喜一憂する。アンジュナビーチへ向かうバスの中で見た、ゴアの少年たちが夢中に裸足でボールを追いかける姿が今でも脳裏に焼き付いている。
 
 
 






2020/06/10 19:57
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