大学サッカー気になること
ファールに対しての文句、審判に対してのクレームがあまりにも多すぎる。
育成年代のゲームに対して、指導者もしっかりとした育成マインドを持って指導すべき。
選手にもダーティーなファールをしないよう指導すべき。
大会等のレギュレーションやルールを徹底的に守らせる。
また、これぐらいなら大丈夫。という安易な考えを排除し、しっかりとした考えでサッカーに取組む感覚を研ぎ澄まさせる事に努力すべき。
誠実に謙虚に
とにかく、淡々とやって欲しい。
ファールをしてしまったら、相手にもレフリーにも頭を下げる習慣を!
レフリーに文句を言うなんてもってのほか。
クレームを言って有利になる事は無い。
ファールをしてしまったらボールには触らない。とにかくポジションを!
ファイトファールなのかプロフェッショナルファールという確信犯なのか?
頑張った果てにファールになる選手は、予測と準備ができていないだけ。
予測と配慮
一年生、特に2020年度の一年生は学生生活も安定せず可哀想。
しかしながら大人に向かって、色々苦しみを経験して自ら動く事や、考える事を覚え始めて欲しい。
二年生になれば、色々苦しんだり、自分の立ち位置がおぼろげながら分かってきて、やっと意識しながら行動出来る様になれば良い。
三年生になれば上級生になり、下級生に対して良い意味での先輩面をして、その先輩面をする事による責任が発生し、そのプレッシャーが責任感を産む。そうすれば急激にサッカーのクォリティは上がるはず。
四年生は大人になっているか否かで、大学サッカーの完成度が違ってくる。
また社会人になって行く事に不安がある選手なのか?
全く心配しなくて良い選手なのかに分かれる。
最後の学ぶ4年間、泣いても笑っても次はプロとしての社会。
頑張れ若人。
技術
私もよく言ってきた技術、止める、蹴る、運ぶという分かりやすい技術がある。
最近大学生を観察していると止める、蹴る、運ぶという技術の優先順位は、やはり止める、蹴る、運ぶだと思うようになった。
以前、心技体の優先順位も心技体だと言ってきた。体技心でもなければ技体心でも無い。止める、蹴る、運ぶもやはり蹴る、運ぶ止めるとかでは無い。
サッカーにおいては運ぶから始まるシーンは殆ど無い。
誰かの蹴ったパスを止める所から始まり、そのまま蹴る(パスかシュート)。
それをまた止めて今度は運ぶ。
それからまた蹴る。
この連鎖が続いてゴールに迫る。
このような動作をいかに厳しいとか狭い状況下で訓練するか、その中で取った取られたが繰り返される。
上手く止められなければ、次の蹴る(パス)やシュートに繋げられない。
運ぶにしてもその後の蹴る(パス)を失敗したのでは台無し。
大学生で色々な差がついた状態で入ってきてトレーニングをしているのに技術力が上がらない。
まず持って厳しいシチュエーションでの止める技術を極めて、相手のマークが厳しい状況の中、味方に正確なパスを送る事ができ、最後にはキーパーの位置を確認しながら上下いかなるところにも正確なシュートを打てるように、できるだけ若い内からトレーニングする習慣を身につけさせたい。
昔オープンスキル、クローズドスキルとよく言ったものだが、本当に試合で通用していくための技術トレーニングをして欲しいものである。
勉強机とグランド
昔から言ってきた事がある。
貴方は多分だけど、勉強机に向かって座っている時間が長い事で勉強をしたつもりになっている。学校の授業も同じ、全員が同じ時間先生の授業を受けているのに色々な差が出てくる。
グランドでも同じ現象が起きている。
随分昔は一生懸命やらせてきた。しかしながらやらせる中にも自身で考え、工夫してまた真剣に取り組み始める選手が出てくる。
中には同じ時間グランドにいるのになぜか感覚だけでトレーニングし、時間だけが過ぎていく選手もいる。
そのような選手を見たら、何故か昔を思い出した。貴方は小さい頃から勉強机には座っていたけど時間と中味が比例していなかったんではない?
と。
何故かグランドでも同じ様な雰囲気を感じる。
何気ないシュート練習、何気ないボール回し、何気ないゲーム。机には座っているけど、グランドにはいるけど、何気に共通している。
やはり自身の能力を最大限に活かすにはどうすべきかを追及すべきであるとつくづく思う。
サッカーは真面目にやればやる程フラストレーションが溜まるスポーツである。
チーム内で上手くいかないことがあると、特にゲーム中に自分自身が思うようなプレーが出来ないとイライラしたり、また仲間とのコミュニケーション不足に苛立ち、文句を言う事が多くなる選手がいる。
真面目に取り組めば色々な不具合が生じる事は当たり前。
それに自己主張を含めて文句を言ったり、下を向いたりしていては何ともならない。
真面目に取り組まず文句や下を向く奴は持っての他。
このような状況に冷静に向き合って言って改善、行動して改善、その繰り返しがチームを熟成させ、個人を成長させる。
フラストレーションをどう咀嚼して飲み込めるかが成功への道筋である。
この事を理解させる事にどれだけ苦労することか、指導者は苦労する。
コロナの感染者が急激に増えている。
いつも練習前後、選手達には自分がコロナに感染しているつもりでオフザピッチの行動をする事。またコロナにかからないように気をつけてなど相当口うるさく言っている。
その事により選手それぞれがコロナ対策を意識する事は間違いのない事である。
サッカーにおいても、選手自身の意識レベルの違いがある。中学生であれば、夢に近い状況でプロになりたいという意識。大学生にもなれば、卒業後はプロになるんだという意識。
我々指導者から見て、アイツは意識高いよね。アイツは言う割にはちょっといい加減だねとか意識レベルの話をよくする。意識をさせるのにも一苦労するのであるが、意識の先にある行動。
これこそが大事であると考える。
コロナもそう。
コロナ対策をしなくてはいけないという意識はあるが、必ずマスクをしてることというとそうでは無い場合もある。徹底は出来ない。手洗いうがい消毒も必ずやれるかというとそうでもない。
サッカー面でもそう。
プロなりたい、なるんだという意識を持っていてもその先にある行動レベルの高低差が著しい選手が多い。
我々指導者は、まず意識レベルを上げる事に心血を注ぎ、その意識の先にあるものを選手達が一生懸命模索し、レベルの高い行動を実行することが大切である。
何とかこのコロナの状況で意識レベルのの向上を学び、今後のサッカー人生に活かしてもらいたいものである。
沢山の育成年代の指導をしていると、色々感ずることがあり過ぎてまとめられなくなることがある。小学生から大学生まで見てきて、カテゴリー(年代)が上がれば上がるほど、気になることがある。
この選手もったいないよね。
観察していると技術ではなく、何で真面目なプレーが継続できないんだろう?何でそこでプレーをやめちゃうの?というプレーそのものではなく、プレーに対するいい意味での熱心さや直向きさに欠ける選手は実に多い。
その次にもったいないよねという選手は、素晴らしいストロングポイントがあるのにもかかわらず、それを生かし切れていない。例えば、縦に速いスピードを持つ選手が、いつも最後にスピードを止めてしまい、囲まれてボールロストしてしまうとか、最後に切り返して縦に突破したのにゴール前に相手の人数が増える状況を作ったり、多少レベルの差がある対戦相手になると、真面目にやれなかったり、その様な選手を見ると本当にもったいないなと思ってしまう。
背の高い選手がハイボールを競ることなく、フィフティボールを拾おうとするとか。
技術も時間をかけて身につくものである。時間をかけさえすれば個人技術は身につく可能性は大きい。しかしながら考え方や取り組み方などは、時間をかけても意識しない限り身につかない。残念ながら一番大事な事がそこにあることが理解できないのだろうか?
もったいないことこの上ない。
体育会系で育った我々は、苦しくても辛くても頑張る事を良しとしてきた。当たり前のように頑張ることは良いに決まっている。しかしながら頑張る事、頑張らせる事が全て正しいかどうかは別である。
頑張る事で身体や精神がおかしくなることもある。頑張らせることで、元々好きで始めた事なのに嫌いになってしまうこともある。
現在は頑張らなくても良いんだよ。頑張ることが全てではないんだよ。という考え方もシチュエーションによってはあり得る。
ただ、物事を成就させるには頑張らなくては難しい。頑張らなくても成就出来るものってあるだろうか?
我々スポーツそれもアスリートを育てる側からすると、頑張らずして勝負には勝てないし、上を目指すことなど到底出来ないと考える。
体調が悪くても無理してトレーニングする事や、熱があっても学校に行く事が美学とされてきた昔。
現在はそんなに無理して身体がおかしくなったらどうするの?しっかり休みなさい。そんなに頑張らないで少しは立ち止まって考えてからまたスタートすれば良いんじゃない。という考えも浸透してきている。
どちらも正解である。
頑張ることは当たり前、頑張らない事も時には必要。この分岐点は難しい。
人として、またアスリートを目指す選手としては頑張る事は当たり前で、また無理というか150%で取り組む事が全てのレベルアップに繋がる。
頑張らない頑張れない選手は、本人は頑張っていると言っても常に頑張っていないように見られてしまう。
無理するな、頑張らなくても良いんだぞと言われる選手は、どこかでまた今までの中とんでもなく頑張ったからこそ、無理するなよと言われるのである。その線引きは簡単である。
どこかで無理をするぐらい頑張ってきた選手は、頑張らなくてもまた頑張れなくても自己判断出来る選手になっているはずである。
頑張ってきたこととか無理をさせられてきた事で、頑張らなくても無理をしなくてもいいと、自分でハッキリと判断できる選手は頑張る事、頑張らなくてもいい事どちらにも美学があるということを理解している人間である。
そもそも「頑張る」という言葉も抽象的で基準も曖昧ではあるが‥‥